不登校の始まり②
娘は、2年の時からたまに学童保育を行き渋るようになり、小学校3年のあるきっかけを境に教室に一切入れなくなりました。
適応障害・母子分離不安・社交不安症・場面緘黙症と診断された娘には、付き添い登校をとても長くしていました。その頃の事を思い出しながら書いてみようと思います。
(不登校の始まり①はこちらから)
学年が変わった・先生も変わった
春休み明け3年になり、初日は前の学年・クラスに入りました。いつもニコニコの男の先生に癒される。
そこから黒板に貼っているクラス分け表を確認し、
それぞれ3年のクラスに移動しました。
3年も同じクラスになったお友達と一緒に教室まで移動しました。
3年は年配の女性の先生が担任になりました。去年、隣のクラスにいた怖いおばさん先生でした。
娘は帰ってきて、新しい担任の先生の名前と、同じクラスになったお友達の名前など沢山おしゃべりしてくれました。その時はまだ楽しみでワクワクしていました。
徐々に登校班の出発時間に間に合わなくなる
小学生で不登校になる子は
娘の小学校ではとても珍しい事のようでした(その当時)。
登校班のあった娘は、まず毎日行き渋り出した頃、
毎朝班の子供や、送りだしに付添に来ているお母さんに
「遅れます。先に行ってください。」と伝えなくてはいけませんでした。
行き渋りを知らない方からすれば、
「先に行ってください」が毎日続くと、「また?」という感じだったと思います。
「わかりました〜。」というもののヒソヒソ言ってるのが見えました。
子供を時間通りに登校させる事ができないルーズな親という印象があったかもしれません。
ですが、玄関ドアのこちら側では毎日戦場です。
充分時間には間に合うはずなのに、玄関で靴をなかなか履かない、靴を履いてもランドセルが変だとか言ってランドセルをおろしてみたり、水筒の紐がなんか調子悪いだの、何か言っては、なかなか出発できずに渋ってました。玄関ドア1枚越えるのがとてつもなく大変だったのを覚えています。
親の私は、その頃他の親御さんと同じように「遅刻なんてダメ!」「登校班の出発時間には走れば間に合う!」などと思っていたので
モタモタしている子供に、「早く早く!間に合うでしょ!」とものすごくストレスが溜まってイライラをぶつけてしまっていました。
子供の気持ちに全く寄り添えて居なかったと今ではとても反省しています。
初期対応を完全に誤ったなと…
玄関ドア1枚出てしまいさえすれば、前を歩く登校班の同級生と会ってしまい、
「〇〇ちゃんおはよう♪一緒に行こう〜♪」
と声をかけられ、うまく気持ちが切り替わって行ける日もありました。友達関係はとても良好のようでした。
行き渋り出した理由については今後書く気分になったら少しずつ記したいと思います。
とにかく今はまだうまく話せそうにありません…トラウマになっていて。
なんとか母子登校なら登校できた日々
3年生の5月に急に行き渋りが始まったのですが、
学童を利用して居たくらいですから、まだ1人で放課後ですら留守番をさせた事がありませんでした。
仕事に行かなくてはいけない時間になっても、玄関でうずくまっては登校できず…
このまま休ませるとなると、9時から5時まで、娘は1日中家に一人で留守番になります。
まだ、そんな長い時間留守番は難しいと思いました。(今のように娘自身がインターネットを使いこなしたり、タブレットや使えるパソコンも家にない時代でした)
なんとか学校で数時間でも過ごしてほしい、せめて昼までは。
とりあえず学校に行ってほしい。なんとか学校まで一緒に連れて行ってしまえば、そのあと行けるのではないか。学校の保健室や職員室まで毎日付き添い登校する日々が始まりました。
保健室まで連れて行き事情を話すと、先生に「よく学校まで来たね。ここで少し休んでも良いよ。」と言ってもらえました。
娘は安心したのか、「私に早く迎えに来てね」と伝え、保健室に登校出来る事ができました。
保健室の先生が安心できる方だから大丈夫だと思えたのでしょう。
私は大急ぎで仕事に向かいました!!